ハイエース4人家族で車中泊〜ナローボディでも快適なバンライフを〜

ビルダーのカスタムはとても素敵だけれど、紹介写真には荷物が載っていない。実際の車中泊は荷物との闘い。狭苦しい車内をいかに効率的に収納を工夫するか、4人家族でも楽しく快適なバンライフが送れるブログをお届けしています。

雑感 旅と手帳と万年筆



ナローボディのハイエースをいろいろ工夫して、家族4人で車中泊やバンライフを楽しんでいます。

さて、今回は旅の道具というテーマで、少し思いついたことを書いてみたいと思います。

昔の旅道具

日本の民族学博物館などには、古い時代の生活や昔の旅道具が展示されていたりしてとても興味深いです。
交通機関も発達していなかった昔は、旅に出るのも大変だったろうと思います。
もちろん車のない時代ですから、旅の持ち物もいろいろと工夫をして、できるだけコンパクトに収まるような旅道具がいろいろと編み出されたようです。そんな、工夫された旅道具の数々を見ていると、単なる道具という概念を越えて、それを手にする愛着や、仕掛けの細やかさや、それを使う喜びまでが伝わってくるような気がします。


たとえば、昔の旅道具として持参された道具の一例をあげてみると
煙草入れ、扇、矢立(やたて:筆箱)、胴巻き(長財布)、早道(小銭入れ)、道中記(道案内)、麻綱(ロープ)、携帯枕、提灯、火打道具、ろうそく台、櫛(くし)、編笠(あみがさ)、藁ぐつ(雪靴、わらじ)、鬢(びん)付け油、鏡、竹筒(水筒)、弁当箱・・・。



道具には、一つ一つ丁寧な装飾が施されたり意匠があしらわれていたりしました。
現代の私たちが見ても、とても使い勝手がよさそうな機能性とデザイン性にすぐれ、使うだけでなく持つ喜びも感じられるような「モノ」としての魅力にあふれているように思います。
こういった道具たちはコンパクトなケースに収納され、旅行く人々に携行されました。中にはその収納ケース自体が、旅先での枕として使えるようデザインされているものもあったようです。


こういった旅の道具たちを見ていると、車中泊にもっていく旅のアイテムにもどこか通じるような親しみを感じます。
私が車中泊の装備やグッズを吟味したり、また人々に紹介するときのポイントとして、その携行性(コンパクトさ)と使い勝手の良さが挙げられます。いくら便利でも、かさばりすぎるものや、多機能だけどごちゃごちゃしすぎているものは、何というのか、あまり「美しくない」のです。
車中泊の装備は、基本的にはバックパッキング的な要素で考えるのがよい、と私は思っているのですが、そういうバックパッキング的要素は、すでに昔の旅にも共通している部分があったということが、大変興味深く感じます。

旅と手帳と万年筆

さて、今回のタイトルでもある「旅と手帳と万年筆」、私にとってこの3つにはある共通するキーワードがあるような気がします。
それはいったいどんなキーワードでしょうか?
共通していることは確かでも、何が?と聞かれると自分自身でもよく分かっていない部分がありますので、一緒に考えてみることにします。


まず手帳から。
手帳には、過去の自分と未来の自分が詰まっています。
その時に考えたことや感じたこと、その時の行動の記憶、また将来のためのアイデアだったり、新しい何かを生み出すためのスケッチや未来の設計図だったりします。中にはあとで読み返してみると恥ずかしいことが書き込まれていたりもするわけですが、そんなのも含めて、その時の自分がそこにあるわけです。


手帳とメモ帳は似ているようだけれど、私にはまったく違うもののように感じます。
「手帳」という外側が存在することによって、自分の頭の中のアイデアや過去の記録がしっかりと守られているような感じがしますし、メモという使い捨ての雑紙(ざつがみ)ではなく、私にとって手帳は残っていく記録の意味合いが強いように思います。また、革の手帳という存在が、ある種、旅そのもののイメージを象徴しているような感じもします。
このことは、自分の深い部分とつながっている気がするので、一言で言い表すのは難しいですが、手帳にも旅にも、何か、今の自分にはないものにつながるヒント、未来への入り口のような要素がある気がするのです。


さて、もう一つの存在である「万年筆」についてですが、筆という字が使われているところからしても、通常のペンとは明らかに異なる光を放つ存在です。
幼いころ、家になぜかインクに筆先を浸して字を書く「つけペン」があったのを覚えています。父も母もそんなペンを使うような人には思えなかったのですが、いろいろと「モノ」が好きな父だったので、ただの気まぐれに持っていたのかもしれません。

私は幼いころから、なぜか文房具に不思議なあこがれというか興味を抱いていたようで、小学1年の時にはじめて自分のお小遣いで買ったのが「ホッチキス」という(笑)。昔ながらの銀色に輝くホッチキスのメカメカしいいでたちと、ホッチキスの針が入った緑色の小さな箱、これが子ども心にめちゃめちゃかっこよくて、用もないのにいつもホッチキスを触っていました。
私の机の引き出しにはその時買ったホッチキスが今でも入っています。買ってから50年たち、ずいぶん錆が出てきましたが、今でも現役です。


そんな文房具好きの私にとって、万年筆という存在もまた大きく心を動かされる道具の一つです。
万年筆の魅力は、それだけで本が1冊できるくらい、いろいろな方が書かれていますが、道具そのものの魅力と、万年筆に使われるインクの魅力、そして、一番はやはり万年筆で書かれた文字そのものの魅力が大きいと思います。
幼いころ家にあったのが「つけペン」だったこともあり、私にとっての万年筆はどちらかというと「筆」の感じがより強い存在でした。
硯で墨をすって筆で文字を書く書道と、万年筆には、たしかにどこか通じるものがあるような気がします。そして、筆で書かれた文字には、うまい下手だけでなく、文字のもつ「面白さ」や「美しさ」「勢い」といったさまざまな表情や気持ちまでがそこに現れていて、見る人の気持ちをゆり動かしたり、感動を与えるほどの力が、筆で書かれた文字にはあるということ、それが万年筆にも言えると思うのです。


万年筆で字を書くと、独特のかすれやインクの濃淡が出ます。そして書かれた文字が、筆圧やペン先の角度などによって微妙に線の太さが変化し、独特の味わいを醸し出します。それこそが万年筆で書かれた文字の魅力です。


万年筆で文字を書くと、自分がよりはっきりとそこに投影される感じがします。いい悪いは別にして自分自身がそこに現れるというんでしょうか?自分の書いた文字がうまい下手ということではなくて、自分が紙の上に出てきてしまうところが、万年筆なのです。
それは、先ほどの手帳とおなじように、そこにありのままの自分が残るという点で共通していると思います。


万年筆のキャップをとり、紙にペン先を走らせる時に、少しだけ私は緊張して背筋が伸びる感じがします。
この感じは、書道と似ているかもしれません。
真剣に文字に向かおうとするときの、やや構えた感じ。
万年筆は、たしかにボールペンや鉛筆で雑紙に走り書きをするのとは、少しだけ向き合う姿勢が違います。


旅先で、ふとした時に手帳を開き、万年筆で文字を書く。この一連の動作は、より強く私に「今この瞬間」を感じさせます。
それは、自分自身と向き合う時間であるのかもしれません。
旅という非日常に身を置いたときに、ようやく自分と向き合う時間を得ることができる。
だからこそ、もしかしたら少し構えてしまうのでしょうか?



「旅と手帳と万年筆」という不思議な三者が、こうしてようやく一つにつながりました。
この3つに共通しているのは、つまり「自分自身との対話」だったわけです。


昔の旅人も遠い旅の夜、和ろうそくに明かりをともし、矢立から小さな硯と筆を取り出し、ゆっくりとキセルで煙草をくゆらせながら墨をすり、置いてきた家族や親しい友へ、自分の今を伝えるべく文をしたためたことでしょう。それは言い換えれば、文を通して自分と対話し、自分自身への問いかけや決意であったのかもしれません。




最後まで読んでいただきありがとうございます。

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