ハイエース4人家族で車中泊〜ナローボディでも快適なバンライフを〜

ビルダーのカスタムはとても素敵だけれど、紹介写真には荷物が載っていない。実際の車中泊は荷物との闘い。狭苦しい車内をいかに効率的に収納を工夫するか、4人家族でも楽しく快適なバンライフが送れるブログをお届けしています。

京都歴史探訪〜城南宮

ナローボディのハイエースをいろいろ工夫して、家族4人で車中泊やバンライフを楽しんでいます。


今回は各地の隠れた歴史スポットをご紹介するシリーズ、京都伏見にある「城南宮」について書いてみたいと思います。

◯◯宮とつく場所にも色々ありまして

今日のテーマは城南宮ですが、この◯◯宮という呼び方、「◯◯神宮」「◯◯宮」「◯◯天満宮」「◯離宮」と、宮がつく神社にも実に色々あります。いったい何が違うのでしょう?

いや、そもそも神社って身近にたくさんあるわりにはあまりよく分かってないというか、何とも謎の多い場所ではありませんか?


日本人というのはおめでたい人種で、とりあえず神さんに手を合わせておけば何とかしてくれると今まであまり深く物事を考えずに暮らしてきました。それが日本の平和の証しなんだと思いますが、歴史的にみても日本って改めて謎の多い国だと思います。中でも特に「神社」という存在は、もう訳がわからんというか、一体誰を祀った何の神さんなのか、あれもこれもごちゃ混ぜにして、一言で「神社」とくくられてしまっています。そもそも神様って誰?という感じです。


そもそも古来日本では、あらゆるものに神が宿る「アミニズム」という考え方が根底にあって、万物に精霊が宿ると考えられてきました。石には石の神様、木には木の神様という感じです。そこへ後からやってきた仏教が浸透して極楽浄土の教えが広まったことで、もう神も仏もごちゃ混ぜになったいわゆる「神仏習合」といわれる状態になってしまいました。
とりあえず手を合わせておけば何とかなるという習慣は、どうやらこのあたりから始まったのではないかと思います。


それが明治時代になると、国家主導で「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」といわれる仏教弾圧が行われました。これは、ただの一宗教に過ぎない仏教を人々の暮らしから切り離すことが目的でした。
その一方で神社を国家の宗祀と位置づけ、地域ごとに神社を整理してまとめる「神社合祀(じんじゃごうし)」という政策が進められていきました。

それまで各地に存在した古い神社の数々は、地域の大きな神社にひとまとめにくくられて、祠も移動して一ヶ所に集められてしまったのです。

神社の由緒書きに「元は別の場所にあった◯◯神社が明治時代にこの地にまとめられた」という記述を見かけることがあるのはそのためです。また、神社の境内に小さな祠がいくつも並んでいるのを見かけることがありますが、それも明治の神社合祀で祠が1ヶ所に集められた結果です。

このようにして明治時代、古い歴史のある神社たちがまるで記憶を上書きされるように別の神社の片隅にひとまとめにされて再出発させられた。このことが、より一層神社という存在を分かりにくくしてしまったように思います。

宮は皇族

明治時代の神社合祀によって、各神社は格付がなされ、その格付に従って名前にもある程度統一性がもたらされました。
城南宮のように「宮」がつく神社というのは、基本的には天皇や皇室にゆかりのある人が祭神として祀られていることが多いようです。中でも特に皇室の祖先や皇族と縁の深い神社は「神宮」と呼ばれています。天照大神をまつる伊勢神宮や、明治天皇をまつる明治神宮、平安神宮などが有名ですね。


神宮に次いで「宮(みや・ぐう)」とつく神社も皇族と関係の深い神社で、こちらは親王と呼ばれる人たちを祭神としていることが多いようです。城南宮はこれにあたります。



城南宮の由緒書きにはこう書かれています。


平安遷都の際、都の南に国の守護神として創建され、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、八千矛神(やちほこのかみ)、神功皇后(じんぐうこうごう)をお祀りする。平安時代後期、周囲に白河上皇が院政の拠点として城南離宮(鳥羽離宮)を造営すると、一層崇められた。



城南宮が創建されたのは794年。これはつまり平安遷都の年です。奈良にあった平城京から、たった10年だけの長岡京を経て、いよいよ京都に平安京が作られたのです。城南宮はそれと同時に国の守護神として(都を守る目的で)ここ伏見に建てられました。


京都に都を移したのは桓武天皇です。
この頃の天皇というのは一つの天皇家が代々天皇を継いでいた訳ではなく、様々な利権が絡み合った複雑で陰湿な勢力争いが繰り広げられていたようですから、京都に都を移した桓武天皇は、当時大和の寺院と強く結びついていた天武天皇系の勢力を遠ざけるために奈良から都を移そうとしたと言われています。


平安京はその後400年にも渡って続いていきます。そういう意味では桓武天皇の判断は正しかったと言えるかも知れません。

地形的な意味

さて、この城南宮のある辺りは、鴨川、桂川、宇治川などいくつもの川が混じりながら淀川へと繋がっていく自然豊かな場所にあります。昔は貴族たちがここで狩りをしたり、歌を詠んだりして遊んだそうです。

昔、伏見の南には小椋池と呼ばれる広大な湖があって、中書島や向島など今も名が残る島々が浮かぶそれは美しい場所だったそうです。見晴らしがよく、四方をくまなく見渡すことができる起伏の少ない広大な場所は、京の都を守る防衛線と見張り役という意味でも適材適所だったのではないかと思います。


またその頃、天皇や貴族たちの間では、はるばる和歌山の熊野神社まで参拝する「熊野詣で」が大変流行っていました。熊野は「黄泉の国(よみのくに)」=あの世を表す場所とされていて、熊野に行って戻ってくることは「黄泉(よみ)から帰る」よみがえり、つまり、一度死んでまた生き返るという、とても重要な意味があったそうです。


その熊野詣でにおいて、京都から熊野に行くには、まず京都を出て、ここ城南宮で小休憩と身の清めを行ってから、小椋池から舟で川を下って大阪湾まで行き、そこからさらに紀伊半島をぐるっと舟で回って熊野を目指したそうです。(熊野古道はいくつものルートがあるので、熊野詣では他にも行き方があったと思います)


城南宮は「法除け」のご利益が特に有名ですが、その始まりはどうやらこの熊野詣でに端を発しているようです。熊野を目指す上皇や貴族たちは方位による災いから護られるように、ここ城南宮で無事を祈願しお祓いを受けてから熊野へ旅立って行ったそうです。

平安の頃というのは方角によって吉凶を決める陰陽道をものすごく重要視していたので、城南宮はその吉凶を決め、方除けを行う大事な祈願所でもあったわけです。




城南宮は駐車場も入場料も無料で入れますが、敷地内には神苑「楽水苑」と呼ばれる美しい庭園があって、そこに入る時だけ料金が必要です。
楽水苑は別名「花の庭」とも呼ばれていて、四季折々の花が咲き小鳥がさえずる美しい庭で毎年、平安絵巻さながらに装束に身を包んだ貴族たちが歌を詠む様子を再現した「曲水の宴」が行われるそうですから、ぜひ楽水苑にも足を運んでみられてはいかがでしょうか?


今回は伏見の城南宮についてご紹介しました。
ここ城南宮は、幕末には江戸幕府軍と薩摩長州土佐の連合軍(新政府軍)との戦い「鳥羽伏見の戦い」の火蓋をきる大砲が、まさにここ城南宮の西参道から発射され、激しい戦いの末、新政府軍が徳川幕府に勝利して、明治維新へと繋がった歴史的にも興味深い場所です。
城南宮の境内を歩くと、京都の深い歴史の一端に触れることができますので、ぜひ訪れてみてください。

番外編「お得なお肉情報」

さて、ここ城南宮のすぐ近くに、「肉のやまむらや」名物の『お肉の自動販売機』があります。この自販機、TVなどでも紹介されたことがありますが、国産和牛など超お得なお肉がパックされているのですが、福袋みたいに中身は出てのお楽しみとなっています。
いずれも買って損はない美味しいお肉ばかりですから、近くに来られたら是非お肉の自動販売機もお試しください!




新堀川通りに面したコインランドリーの駐車場の角にある赤い自販機がお肉の自動販売機です。


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